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金沢地方裁判所 昭和30年(ワ)123号 判決 1956年4月30日

原告 芦原新蔵

被告 三浦外茂治

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

原告訴訟代理人は、被告は原告に対し金五拾万円及び之に対する訴状送達の翌日より支払済に至る迄年五分の割合による金員を支払せよ、訴訟費用は被告の負担とするとの判決並びに担保を条件とする仮執行の宣言を求め、請求の原因として

(一)  被告は右肩書地で医業を営む医師である。

(二)  原告は亡芦原紅子(昭和二十三年十月十日生)の父であり、紅子は原告と原告の亡妻千鶴子との間に出生した長女で唯一人の子であつた。

(三)  昭和二十九年五月二十八日紅子が腹痛を訴えたので原告の妹芦原桜子が連れて被告方に赴き診察を受けた。尚紅子が被告の診察を受けたのは之が初めてではなく其の以前三四回診察治療を受けたことがあり、被告は紅子の体質につき知識をもつていた。

被告は診察の結果、単なる消化不良であると診断した。

その時連行した芦原桜子が被告に対し以前に紅子が疫痢にかゝつたことがあつたのと時節柄疫痢ではないかと念を押して尋ねたら被告は絶対に疫痢ではないから必配は要らないと断言した。そして翌朝もう一度連れてくるように指示された。

(四)  翌二十九日の午前九時頃右桜子は被告方に紅子を連れてゆき診察を受けたところ、被告より「之は疫痢である、こゝでは手の施しようがないから大きな病院へ連れてゆきなさい」と言われた。

原告は已むなく金沢大学附属病院へ入院させることにした。治療に寸刻を争い且つ絶対安静を要する瀕死の重病人を自動車に乗せて被告方から右病院まで運搬しなければならず此のために治療に最も貴重な三時間余を空費した。

(五)  右病院においては出来る限りの治療が施されたが手遅れのため手当の甲斐なく同年五月二十九日午後七時五十五分紅子は死亡した。同病院の医師高川清延の診断によれば死亡の原因は疫痢であり病状の継続時間は約三十二時間である。

(六)  紅子の死亡について被告は次に述べる通り診察、治療及び指導監督の三点に過失がある。

一、診察上の被告の過失。

(1)  胃腸症状について。

疫痢の症状は、胃腸症状即ち嘔吐下痢があり且つ大便は赤痢便である。紅子は昭和二十九年五月二十八日午後一時半頃嘔吐を催し且つ腹痛を訴えたので被告に診察を求めたのである。其の結果便は黄色軟便で消化不良物が混つていたのであるから、此等の事実より紅子の胃腸症状は疫痢を疑わしめること明白である。

(2)  熱について。

疫痢症状には発熱を伴うのを原則とする。被告が右二十八日紅子を診察した時には三十九度余の発熱があつた。被告が此の熱を扁桃腺炎と誤診している。被告は本件以前に紅子を診察したとき一回扁桃腺炎であつたことから本件の場合も扁桃腺炎と診断したことは軽率である。

(3)  腹部症状について。

疫痢の胃腸症状の特徴は触診して腹部が柔軟である。被告の診断によれば腹部稍々膨満柔軟であつたから、疫痢の胃腸症状の特徴を示している。

(4)  体質について。

紅子の体質が強い子でなかつたこと、及び早産児であることは被告が本件診察当時知つていたのであるが、かゝる早産児の弱い子は疫痢に罹り易いことは医学上の定説である。

(5)  季節と年令について。

紅子が疫痢になつたのは五月二十八日であり同児の年令は五歳七ケ月であるが、疫痢は初夏から初秋にかけて瀕発することが特徴であり且つ二歳乃至六歳の小児に多いことは統計上明らかである。

(6)  診察上の特別注意事項について。

疫痢の診察上特に注意を要することは早期診断の必要なこと而かも初期に症状から判断することが困難であるから医師としては種々の場合を想定して万全の配慮をなすことが要請されるのである。患者の体質、既往症、年令、季節等が重要な診察上の資料となるのである。東大教授医学博士沖中重雄著内科中券疫痢の項には「従来活溌に嬉戯していた小児が突然籠居して倦怠の徴候を示すときには本症を疑う必要があり、更らに多少の発熱、軟便が存在すれば本病の初期であることは殆んど確実となる」と記載されている。然るに桜子が紅子を被告方へ連れて行つて診察を受けた際桜子は「紅子が今朝から元気がない」旨を被告に話しているにも拘わらず被告は以上の諸条件を検討して診断するという注意に欠けていたのである。

(7)  問診について。

医師が患者を問診する場合には、患者が小児で且つ嘔吐を催し腹痛があり且つ時期が五月二十九日であれば先づ患者の病歴、家族歴、患者の栄養、過食した食物を聞き、殊に患者が以前に疫痢に罹つた病歴を有する小児である場合に、現在嘔吐を催し腹が痛いと言えば、それは考慮に入れるべきである。紅子は本件より約二年前の昭和二十七年七月に疫痢に罹つた病歴を有するのであるから被告が医師として通常必要とされる問診において紅子の病歴を聞いておれば当然此のことを知り得たにも拘わらず被告は此の問診をしなかつたのみならず、附添の桜子が「疫痢になると恐しいから診断を受けに来た」と言つて被告の注意を喚起したのに拘わらず被告は無関心な態度で「大したことはない、消化不良だろう」と診断したのである。

(8)  疫痢擬似継続時間について。

本件の疫痢擬似継続時間は約三十二時間である。ところで紅子の死亡したのは昭和二十九年五月二十九日午後七時五十五分であるから、其の死亡時より逆算して三十二時間前即ち被告が第一回に診察した同年同月二十八日午後二時頃には既に疫痢症状が現われていた筈である。従つて被告は明らかに誤診したのである。

二、治療上の被告の過失。

(1)  治療時間の空費について。

被告は昭和二十九年五月二十九日午前九時頃紅子を診察して疫痢と診断したのであるが、被告は疫痢と判明した際、時を移さず緊急手当を施すべき義務を有する。然るに被告は疫痢と診断した後、約十時間で死亡するような患者を、隔離病院へ移動させなければならぬということで自動車で金沢大学附属病院へ運ばせ治療上最も重要な時期を空費させたのであるが此のことは被告の重大なる過失である。

生命の危険あるとき疫痢患者を医師の自宅で治療することが法律上許されていることは被告の承知しているところである。

(2)  クロロマイセチンを施用しなかつたことについて。

疫痢にクロロマイセチンが効果大なることは現代医学の定説であることを被告は知り乍ら之を施用していない。本件の発生した昭和二十九年五月には既に同薬の注射薬が存在したのである。

三、看護指導上の被告の過失。

医師法第二十三条の規定によれば医師が診療したときは、本人又の其の保護者に対し療養の方法其他保健の向上に必要な事項の指導をしなければならないと規定している。疫痢は前記の通り早期診断を必要とし且つ二十四時間乃至四十八時間内に生死を決するはげしい病気であり、而かも初期に診断を下すことが困難である特徴を有しているのであるから紅子の前述のような症状と諸条件とが存在する場合には、其の時疫痢と診断し得る状態でなかつたとしても疫痢に進展するかも知れないと配慮することは医師として当然の義務に属する。それ故保護者に対し起るかも知れない病状の変化に注意を与え、それに応じて医師に連絡すべく看護上の指導をなすべきである。

被告が右看護上の指導を十分にしていたならば原告又は桜子は疫痢症状の発生と同時に被告に対し緊密に連絡をなし得た筈である。然るに被告はかゝる看護上の注意指導を全然なさず単なる消化不良で大したことはないと保護者に伝えているのである。被告が此のように紅子の症状につき看護指導上の必要な注意をなさなかつたことが紅子死亡の決定的原因の一つである。

以上被告の各種の過失ある行為により紅子は死亡するに至つたのであり被告の行為は不法行為を構成する。

(七)  原告は昭和二十二年十一月二十一日亡千鶴子と婚姻し昭和二十三年十月十日紅子が出生した。妻は産後の「ひだち」が悪く七十日を経た同年十二月十九日死亡した。

紅子は非常に聰明な性質であつたから原告は将来に望みをかけ、亡妻の生き形見として後妻もめとらず不自由を忍び乍ら妹の桜子の世話で紅子を育て愛情の限りをそそいでいたのである。

原告は紅子を失うや、その精神的打撃のため「うつ病」に罹り、医師から約二ケ月の静養を要すると診断され、国立金沢病院精神科に同年七月三日から同年同月二十三日迄入院し、退院後も自宅で同年八月末迄勤務先を休んで療養した。

原告は昭和二十年四月以来北陸鉄道株式会社に勤務し月収約二万一千円を得ている。

被告の前記不法行為により原告の蒙つた精神上の苦痛は極めて甚大であり之を金銭に評価すれば金五拾万円を下らない。

原告は被告に対し其の慰藉を求めるため右金五拾万円及び之に対する訴状送達の翌日より支払済に至る迄民事法定利率年五分の割合による遅延損害金の支払を求めるため本訴に及ぶと陳述した。<立証省略>

被告訴訟代理人は主文同旨の判決を求め、答弁として原告主張事実中(一)及び(二)の事実は之を認める。

(三) のうち紅子が以前四回被告方に診察を求めに来た事実、被告が幸子(桜子ではない)に翌朝もう一度連れて来る様にと言つた事実は認めるもその他は否認する。即ち昭和二十九年五月二十八日午後二時頃紅子が同日午前中より発熱したとて幸子(保険証では原告の妻)に伴われて被告方に診察を受けに来た。よつて被告が紅子を診察したところ咽頭は発赤腫張していたが胸腹部には著しい変化がなかつた。又小児発熱の際であるから便を調査する必要があるので浣腸検便したところ、便中に若干の不消化物が混じて居たが粘液、血液、膿汁等が発見出来なかつたので被告は扁桃腺炎による発熱と急性腸炎の併発と診断したのである。

(四) の事実は否認する。即ち翌二十九日の午前九時頃幸子が紅子を伴い再び被告方に診察を求めに来た際「初診後特に著しい変化がなかつたが昨夜十一時頃に至つて、急に頻回な嘔吐、下痢を来し元気が甚しく衰えた」旨を訴えられ、又紅子著用の下着に粘液が附着して居り紅子の顔面は蒼白、脈搏は甚々弱く脱水症状があつたので被告は幸子に「疫痢の疑がある、伝染病予防法により隔離する必要があるから手続をしよう」と言い国立金沢病院小児科に連絡したが院長不在のために収容を断られたので金沢大学附属病院小児科に連絡し其の承認を得ると同時に紅子の症状の移送可能なことを認定して自動車で送院した。此の間患者の移送に当りリンゲル液三〇〇cc、二〇%葡萄糖液二〇ccの混合液を皮下注射して万全の処置を採つた。そして診察治療連絡移送に約一時間半を要した。其の間の処置に遺漏はなかつた。

(五) の事実は不知。

(六)  の事実は否認する。即ち被告の主張は次の通りである。

一、診察上の被告の過失について。

(1)  胃腸症状について。

原告は紅子の病状に疫痢を疑わしめるものがあつたと主張するけれども、疫痢と診定するについては便中に粘液、膿汁、血液が混入しているか否かを調査することが重要なのであり、被告は当日特に浣腸して検便し便中に粘液、膿汁、血液のないことを確認しているのであるから疫痢を疑わしめる症状ではなかつた。

(2)  熱について。

熱を伴う疾患は極めて多い。三十七度乃至四十度の発熱があつたからとて直ちに其の病源が疫痢であると疑うことはできない。被告は二十八日の診察の際扁頭腺炎を伴う急性腸炎と診断しているのである。

(3)  腹部症状について。

被告は二十八日診察の際カルテに「腹部稍々膨満柔軟」と表現した場合の柔軟とは腹部触診上異常のない場合の医学的表現である。当日紅子は腹部は異常がなかつた。

(4)  体質について。

弱い幼児は或種の病気に罹り易い。併し疫痢のような急性伝染病は主として細菌の毒力に係り体質とは関係が乏しい。体内に細菌が居るか否かゞ重要なのである。

(5)  季節と年令について。

原告主張のような季節と年令に発する病気は疫痢のみとは断言できない。

(6)  診察上の特別注意について。

或一定の症状を発顕するに至つて始めて或る病患につき疑を抱くことができるのであり、附添人の温情ある看護と観察により病状の変化につき医師に対する連絡があつて、初めて医師は適切な判断ができるのである。然るに紅子の附添人は二十八日の午後十一時頃嘔吐下痢が激しくなり病状が急変したにも拘わらず之を被告に連絡せずに放置しておいたのであつて、此の事が紅子の死亡する決定的原因であり被告には診察上の過失はない。

(7)  問診について。

疫痢は急性伝染病であつて、細菌の毒力によるものである。紅子の病歴に疫痢疾患があつたとしてもかゝる先年の病歴は現在の診断には差し当つて関係がないから被告に過失はない。

(8)  疫痢擬似継続時間について。

二十八日午後二時初診の際の被告の診察態度は前述の通り浣腸検便して調査をなし、疫痢の症状を発見し得なかつたのである。殊に金沢大学附属病院に入院した時においてすら担当医師が尚疫痢擬似を診定せずに死亡時に至つたのであつて此の事は疫痢の診定の困難を物語るものである。

二、治療上の過失について。

(1)  昭和二十九年五月二十九日紅子を入院せしめた処置。

被告は隔離と完全なる治療を施さるべき病院へ市内舖装道路上数分の移動は紅子の体に支障なしと考へた。又注射その他必要な処置は一切とつた。従つて紅子を入院せしめた処置のために紅子が死亡したとは謂い得ない。以上の処置は伝染病患者に対し法の要求する処置でもある。設備不完全な診療所へ紅子を留めておくことは患者のためにもよくないであろうことは断定できるし同時に法規違反となる。被告が自家の迷惑のみを考えて紅子の病状を無視し病院へ送院したという原告の主張は単なる誹謗である。又被告の指示に反し自動車にて一度自宅に立ち帰つた時間をも被告の責任に転嫁せんとする原告の主張は失当である。

(2)  「クロロマイセチン」について。

「クロロマイセチン」の注射薬は昭和二十九年五月当時市販になかつた。少くとも当時医師である被告にも容易に手に入る状態ではなかつた。被告は前日の二十八日より患者にクロロマイセチンと同性質の「サルフア」剤は投与していたし、患者の移送に際し「リンゲル」液三〇〇cc、二〇%葡萄糖液二〇ccの混合液を皮下注射して万全の処置をとつた。従つてクロロマイセチン注射液が仮りに市販されていたとしても其の注射をしなかつたことは被告の過失とは謂えぬ。況んや之を注射しなかつたゝめに患者が死亡したとは謂えぬ。

三、看護指導上の過失について。

二十八日被告が紅子を診察した際は前述の通り浣腸検便迄して用意周到に万全を尽したが当時一般の胃腸疾患と変りない状態であつた。紅子に疫痢症状を発顕したのは二十八日の夜になつてからのことである。従つて当時疫痢を予見して特別の注意を与え得なかつたことは被告としては已むを得ないところである。

(七)  のうち、原告主張の損害評価は否認する。

以上要するに被告の所為と紅子の死亡との間には因果関係はなく、仮りに因果関係があるとしても被告の患者に対する取扱いに過失は存しないと陳述した。<立証省略>

理由

被告が金沢市横山町一番丁五番地で開業している医師であり、原告の長女である亡芦原紅子(昭和二十三年十月十日生、満五年七ケ月)が昭和二十九年五月二十八日附添人に伴われて被告方に診察を受けに来たことは当事者間に争がない。

よつて先づ右二十八日及び翌二十九日における右紅子の容態並びに之に対する被告の診察治療につき按ずるに成立に争なき乙第一、第二号証甲第二号証及び証人芦原桜子及び被告本人各訊問の結果を綜合すれば紅子は当時その母千鶴子が死亡していたゝめ原告の妹桜子により主として育てられていたものであるが、紅子は右二十八日の朝より元気がなく同日午後一時半頃桜子に対し腹痛を訴え且つ嘔吐を催したので、右桜子は紅子を伴い被告方に赴き同日午後二時頃被告の診察を受けたところ、体温三十九度五分、脈搏九十八、咽頭粘膜発赤腫張し胸部著変なく、背部皮膚に水泡性のもの顕われ、腹部稍々膨満柔軟の状態であつたから被告は更に便を検査するため浣腸した結果、黄色軟便稍々多量排泄、便には不消化物が少量混り、粘液膿汁血液なく未だ疫痢症状は発見されず且つ紅子は嘔吐を訴えなかつたので、被告は右診断の結果発熱の原因は扁桃腺炎にあると考え、扁桃腺炎と急性腸炎の併発であると診断し、其の処方として油性「プロカインペニシリン」三十万単位を筋肉注射し且つ「フエナセチン」〇・五瓦、「サルゾール」二・〇瓦、重曹〇・五瓦の粉薬一日四回分と、「ビタミンB1」三・〇瓦、重曹一・〇瓦、沸騰水三〇・〇瓦の混合水薬とを投与し翌朝再び診察することゝして帰宅せしめた。其の後桜子は右薬品を所定の通り紅子に服用せしめたが薬を服用する毎に嘔吐があり熱は下らず翌二十九日午前零時半頃より下痢が頻回にあり且つ嗜眠状となり意識はあつたけれども時々譫妄があり四肢に震いを生ずるに至つた。右のように紅子の容態は急変したけれども桜子は深夜のことでもあり就寝中の原告を起すことも躊躇し、むしろ之を遠慮して避けていた。そして同日朝九時頃桜子は再び紅子を抱いて被告方に至り診断を受けたところ、被告は紅子を診察して体温三十六度脈搏百二十、緊張弱く、胆汁様の嘔吐があり、患者の下着に粘液のみが附着して脱水状況が相当強く、相当ぐつたりしており且つ桜子より当日午前零時半頃よりの容態の急変を聞き、擬似疫痢と診断し、「リンゲル」液三〇〇瓦、二十パーセント葡萄糖液二〇瓦混合液の皮下注射をなすと共に、直ちに患者を隔離病舎へ送るべきを可とし、且つ之を送ることは患者の容態より未だ可能であると判断し、自ら金沢大学医学部附属病院に入院の依頼をなすと同時に桜子に対し之に患者を入院せしめることを命じたので桜子は急遽自動車で同院へ患者を連れて収容した。時に午前十時三十分頃である。金沢大学医学部附属病院では担当医師高川清延が診断したところ疫痢症状を伴う急性重症消化不良と診断し直ちに対症療法を施したが紅子は其の効なく同日午後七時五十五分疫痢擬似に基く心臓麻痺により死亡したことが認められるのである。

原告は紅子の死亡は被告の診察、治療、看護指導において過失があると主張するから以下順次検討する。

一、診察上の過失について。

(1)  胃腸症状について。

証人泉仙助の証言によれば疫痢は赤痢の特殊類型であつて其の大便は赤痢便である。即ち大便中に粘液膿様物質が入つており且つ血液が混じていることが多いものである。ところで本件の場合被告が二十八日紅子を診察し此の点を明瞭に認識するため前認定の通り紅子に対し浣腸を施した結果、その大便中には、粘液膿汁血液が発見されなかつたのであるから、不消化物が混じていても被告の右診察時においては未だ疫痢を疑う段階になかつたものと謂うべく従つて此の時における被告の診断には過失がないものと謂うべきである。

(2)  熱について。

前認定の通り二十八日に被告が紅子を診察した際三十九度五分の発熱があつたのであるが、発熱は多くの疾患に見られる現象であつて、此の発熱を以て直ちに疫痢と診断することはむしろ軽卒である。原告は被告が此の発熱は扁桃腺炎であると診断したことは誤診であると主張する。なるほど結果から見ればその様に主張し得るかも知れないが、判断の標準時はあくまで被告の右診察時であつて、患者の死亡後を基準とすべきものではない。

(3)  腹部症状について。

前認定の通り、腹部診察において被告は稍々膨満柔軟とみているのであるが之は被告訊問の結果によるも必ずしも疫痢症状のみに有する特徴ではない。

(4)  体質(5) 季節と年令について。

弱い幼児が初夏より初秋にかけて疫痢にかゝり易いことは証人丘村欣也同泉仙助の各証言により明らかであるけれども之を以て本件の場合被告に診察上の過失ありと断定することは到底できない。

(6)  診察上の特別注意事項について。

被告本人訊問の結果によれば患者の体質既往症年令季節等を考慮の外に置いたことは認められずそれよりもむしろ患者の当面の疾患の原因を直接に調査究明すべく浣腸を施して其の大便を検査した結果疫痢を疑う程度に至らない症状であると判断したのであつて被告において原告主張の特別注意事項につき注意を払わなかつたことによる過失は認められない。

(7)  問診について。

証人丘村欣也、同芦原桜子及び被告本人各訊問の結果を綜合すれば紅子は本件発病より約二年前である昭和二十七年七月に重症消化不良に罹り医師丘村欣也の診療により治癒したことがあるが被告は紅子の診察に際し、その問診において被告の病歴に触れなかつたことが認められる。右は被告の診察上の注意に欠けていたこと勿論であるけれども此の病歴は差し当つて本件の場合関係がないのであつて、要は患者の体内における細菌の存否が重要なのであるから右問診に欠けるところがあつても、紅子の死亡に対し因果関係を有する被告の過失とするに足らぬ。

(8)  疫痢擬似継続時間について。

成立に争なき甲第二号証によれば紅子の疫痢擬似継続時間は約三十二時間であることが明らかであるが証人高川清延の証言によれば右は昭和二十九年五月二十八日正午頃を発病時とし之を起算時として潜伏状態の時間をも含めているものであることが認められ、之に前認定事実を綜合すれば被告の二十八日午後二時頃の診断時には未だ潜伏期に属し疫痢症状を発見しなかつたのであるから、既に被告の右診察時には疫痢症状があらわれていたことを前提とする原告の主張は採用できない。

二、治療上の過失について。

(1)  治療時間の空費について。

前記認定事実によれば被告は二十九日午前九時頃紅子に対し第二回目の診断をなした際緊急手当として「リンゲル」と二十パーセント葡萄糖液混合液皮下注射をなしているのである。又被告本人訊問の結果によれば被告は町の開業医として設備不充分な自己の診療所へ患者を留置するよりもむしろ専門の設備を有する病院に入院せしめて之を隔離すべきであり、且つ其送院には多くの時間をとらないと判断したことが認められるのであつて、右判断は適切妥当なものと考えられるから原告の主張は採用できない。

(2)  「クロロマイセチン」について。

「クロロマイセチン」が赤痢疫痢等の症病に対し其の効果の大なることは被告本人訊問の結果認められるのである。同薬の注射液が昭和二十九年五月当時市販されていたか否かは本件の証拠上明白ではないが、仮りに市販されていたとしても前認定の通り被告は之に代るべき「サルフア」剤を患者に対して投与していたのであつて、必ずしも「クロロマイセチン」を使用しなければならねものでもなく、又二十八日の診察時には同薬を施用すべき必要性も認められなかつたことが被告本人訊問の結果より認められるから同薬を施用しなかつたことにつき被告に過失が存するという原告の主張は採用できない。

三、看護指導上の過失について。

原告は被告が保護者に対し起るかも知れない病状の変化につき注意を与え、それに応じて医師に連絡すべく看護上の指導をなすべき義務を有するにも拘わらず之を怠つたのであつて医師法第二十三条の規定に違背すると主張する。

按ずるに医師法第二十三条の規定は医師の患者に対する当面の診定した症状に対して適切な指導をなすよう命じた規定であると解すべきであつて其の症状の変化が予想される場合に於ても、如何に変化するかは具体的には特定し難いのであり従つて其の変化に応ずる看護上の指導をなすことは頗る至難の事に属する。即ち現在の症状につき観念的な因果関係を際限なく拡大分化し夫々に対する看護上の指導を医師に要求することは不能であると共に仮にこれが可能であるとしても斯くの如きは附添看護者をして困迷惑乱せしめて其の執るべき手段を不明ならしめひいては看護を誤らしめるに至るであろう。特に医師が斯る病状の変化を予想していない場合には尚更医師に斯る要求をなすことはできず、同条も亦斯かること迄も医師に命じている規定と解することはできぬ。本件において前認定によれば被告が二十八日に紅子を診断した時には胃腸疾患としては急性腸炎の程度であり此の時には被告は病状の変化を予想していないのであり、且つ疫痢症状を疑う症状ではなかつたのであるから、仮りに右診察時に附添人たる桜子が疫痢になると心配だと被告に告げたとしても、且つ被告が疫痢症状に対する看護上の注意事項を桜子に与えなかつたとしても医師法第二十三条違反とはならぬものと解すべきである。

むしろ前認定によれば桜子は二十九日午前零時半頃から紅子の症状が変化したことを知り乍ら被告に之を連絡しなかつたのであるから同女に看護上の重大なる過失が存するものと思料する。蓋し桜子は紅子が昭和二十七年七月に一度疫痢に罹つたことを知つており且つ紅子が今回も疫痢になることを極度に恐れていたのであるから二十九日午前零時半頃より紅子の嘔吐下痢が頻回となる症状に変化した場合には、たとえ医師の指導がなくとも直ちに医師に連絡して医師の指示を受くべきことは通常人の通常執るべき手段である。殊に疫痢は急激に悪化進行する症状であるから之を危惧する場合は尚更速やかに医師に連絡すべきが至当である。然るに時刻が深夜であるから就寝中の原告を起すことが気の毒である等と謂うような悠長なことを言つておれる時期ではないのであるにも拘わらず同女は之を放任して医師に連絡する手段を執つておらず二十九日午前九時頃迄放置していたのである。これは常識ある人の処置ではなく通常人としての注意義務を著しく欠缺しているものと評せざるを得ない。従つて桜子には看護上の重大な過失が存するのであり此の過失は爾後の患者に対する適切有効なる医療処置の機会を失わせたものであつて、此の過失は紅子の死亡に対して決定的な原因を与えたものと思料する次第である。

以上説示の通り被告の診察、治療、看護指導に過失が存するという原告主張は之を認めるに足る証拠がないから爾余の点に対する判断を省略して之を棄却すべく、訴訟費用に付民事訴訟法第八十九条を適用し主文の通り判決する。

(裁判官 辻三雄)

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